高校生のとき、鬱になった。突然だったともいえるし、そうでなかったともいえる。この世界に、自分などいてもいなくても、何も変わらない、むしろいなくなったほうがいいのかもしれない。そう思い詰めて、しかし自分で死ぬのは怖いので、誰か私を殺してくれと毎日願っていた。朝、遮光カーテンを開けては泣いて、夜は闇に溶けて消えることができず泣いた。ところで、鬱になると、朝布団からでられない。何をどう頑張っても身体が動かないのだ。それから、人は本当に辛いとき、そのことを誰にも話せなくなる。「誰にも」である。リストカットなんて、そんな痛いことできるかと思うかもしれないが、心臓のほうが痛すぎて、不思議とそんなに痛みを感じなかった。
唯一の楽しみは、所属していた山楽部の毎月の登山だった。この日だけは布団から飛び起きてせっせと準備して行くのだから、まったく笑える。滋賀県の山を中心に、毎月一度、日帰り登山をして、夏の合宿では日本アルプスを登った。顧問のT先生の後ろにくっついて、黙々と登っているときだけは、全てを忘れることができた。先生はことあるごとに、「おまえ将来何になるんや?楽しみやなァ。」とおっしゃるので、その度になんとも居心地の悪い思いをしたが。先生との出会いは、担当されていた現代社会の授業だった。定年退職間近の、陽気で、いかにも優しそうな風貌をしていた。初めての授業の最後に、山楽部の宣伝を長々とした後、教室を出ていく先生を追いかけて、入部する旨を伝えた。このときはまだ、鬱で辛い時期を、先生と山々に救われるとは知らなかった。いや、知っていたのかもしれない。
人間とは不思議なもので、絶望しつくしたあとは、絶望しつづけることもなかなか疲れることに気がつく。このときは生きていることに絶望していたのだが、この程の修論執筆中、中国国内の資料がまったく期待はずれで絶望したときも同じであった。今だからわかることだが、高校三年間担任をしてくださったN先生は、ずっと私を信頼してくださり、私が何一つ諦めていないことを見抜いていた。学校を休みがちな私が問題なく卒業できるように、卒業に響くから家庭科のある曜日は休まないようにと言って、休んでもよい日数を計算してくださった。多くの先生方に温かく見守っていただき、高校最後の年はなんとか持ち直して、岡山大学法学部の夜間主コースに進学を決めた。
二○二五年六月九日 北京